未知のハンバーガーを日本へ
1950年代半ばから続いた高度経済成長により、人々の生活様式は戦前と大きく変わっていきました。外食文化が急速に花開いていったことも、時代の変化を象徴する出来事の一つです。1971年には日本マクドナルドがオープンしましたが、その前年にはケンタッキーフライドチキンやダンキンドーナツといった米国式チェーンレストランが相次いで上陸。日本発祥のファミリーレストランも次々と開店し、家族で外食をすることが徐々に日常になっていきました。特にハンバーガーという異国の食文化は、日本中から熱い視線が注がれるものとなりました。
- 1.日本の文化の中心から、ハンバーガーを―日本マクドナルドが銀座三越にオープン―
- 2.外食産業の夜明け―全国展開への足掛かり―
- 3.モータリゼーションとドライブスルー―ドライブスルー店舗の誕生―
日本の文化の中心から、ハンバーガーを―日本マクドナルドが銀座三越にオープン―
ビートルズの来日、ヒッピーファッションの流行、ボウリングブーム…。1960年代後半の日本には世界各国から様々な文化が流れ込み、人々はそれらに夢中になっていました。まだ海外旅行が高嶺の花だったこの時代、日本人は自分たちの知らない海外の暮らしへの憧れを大きく膨らませていたのです。日本マクドナルドが誕生への第一歩を踏み出したのは、こんな時代の空気の中でした。
1969年、のちに日本マクドナルドの創業者となる藤田 田は、貿易商社を創業して世界中を飛び回っていました。そんな折、彼はアメリカのマクドナルド・コーポレーションが日本進出を考え、業務パートナーを探しているという情報をキャッチ。藤田は、マクドナルドのハンバーガーがアメリカで人気を博していることを知り、いつか日本にもクイック・サービス・レストランの時代がやってくると予見していたのです。
ハンバーガーレストランビジネスの大きな可能性を感じた藤田は、すぐにマクドナルド・コーポレーションの創業者レイ・A・クロックと接触しました。このときすでに大手商社などいくつかの日本企業がマクドナルドコーポレーションにアプローチを行っており、藤田の立ち上がりは遅い上に資本力は小さく、極めて不利な状況のように思われました。しかし、レイ・A・クロックは藤田の国際的な感覚、コミュニケーション能力、語学力、そして大企業のように事業部の一部ではなく、起業家精神でマクドナルドビジネスにかける一途な姿勢を感じ取り、こう言いました。「今までたくさんの日本人が訪ねてきた。しかし、マクドナルドのビジネスを任せようと思ったのはフジタ、君が初めてだ」。
こうして日本マクドナルドのビジネスが始まりを迎えたものの、出店には大きな課題がありました。当時の米国の常識では郊外の出店が当たり前となっていました。しかし、当時の日本人の多くは海外に行ったことがなく、ハンバーガーの知名度はほぼゼロだったのです。“米と魚の国”日本に新しい食文化を根付かせるには。藤田は考え、大胆なアイデアを口にしました。「日本1号店は、日本の流行が生まれる中心地・銀座に出店する」。その言葉通り1971年7月20日、日本マクドナルド第1号店が銀座三越にオープン。また、輸入規制によりまだ牛肉が食卓にならぶことが少なかった当時、ハンバーガーは勿論、100%の牛肉を使用し、それを手軽に食べることができるメニューは考えられませんでした。当時貴重だったマクドナルドのこだわりである100%ビーフを強く打ち出していったのです。こうして、海外の文化に憧れを抱いた若者を中心に、多くの人が100%ビーフのハンバーガーを食べようと店へと押し寄せました。休日には「銀座歩行者天国」でハンバーガーを片手に食べ歩く人が続出。この様子はマスコミに大々的に取り上げられ、異国の見知らぬ食べ物というよりむしろ“新しいファッション”として、ハンバーガーの上陸を日本中にセンセーショナルに広めたのです。
外食産業の夜明け―全国展開への足掛かり―
かつての日本人にとって、家の外で食事をするという行為は特別なことでした。お祝いや記念日といった“ハレの日”に、家族みんなでちょっとしたごちそうを料理屋、洋食屋、デパートなどで食べるというのが、当時の一般的な“外食”だったのです。
それが大きく変わったのは、のちに“外食産業元年”と呼ばれる1970年でした。この年から外国資本の外食企業が相次いで上陸しただけでなく、日本初のファミリーレストラン「すかいらーく」の登場を皮切りに、「カレーハウスCoCo壱番屋」や「モスバーガー」など現在の外食チェーンも数多く誕生。
マクドナルドは“出店するすべての店舗におけるメニュー、価格、オペレーション、サービスが同一”という店舗のシステムを標準化することで、それまでにはない経営効率を実現しました。大きな都市を中心に次々と店舗を拡大。日本第1号店となる銀座店のオープンからわずか4日後に代々木店、その後大井店、新宿二幸店…と続き、翌1972年からは概ね1ヵ月に1店舗のペースで新店舗をオープンしました。さらに関東地方をはじめとして関西、中部、四国、九州地方の大都市圏に次々と出店し、全国展開が始まりました。日本マクドナルドをはじめ飲食チェーンは競い合うように店舗数を伸ばし、外食産業が大きな市場へと発展。外で食事をするという行動は、人々にとって当たり前のものとなっていきました。
モータリゼーションとドライブスルー―ドライブスルー店舗の誕生―
大量の荷物を車に詰め込んでレジャーへと出かける家族や、流行のデザインの愛車に乗ってドライブを楽しむカップルたち。1970年代後半には、日本のあちこちで自動車の走る姿が見られるようになりました。日本各地を結ぶ主要な高速道路網や幹線道路網が次々と整備されたことに加え、高度経済成長に伴う所得の上昇によって人々の消費行動は拡大。さらに、国内の主要自動車メーカーが様々な車種を販売したことも追い風となり、1965年に約700万台だった自動車普及台数は、わずか10年ほどで3,000万台に。日本人にとっての自動車は、それまでの“金持ちの象徴”から“気軽に乗れるもの”へと変化していったのです。
このようなモータリゼーションの気運が高まる中で、日本マクドナルドは1977年にドライブスルー1号店を出店しました。その頃の日本には本格的なドライブスルー方式のレストランはなく、ユニークな販売システムとして大きな話題になりました。